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カテゴリー「その他」の10件の記事

2008年3月 5日 (水)

父の四十九日。<後半>

一夜明け、皆7時~8時ごろに起床。朝食を済ませた後は、親族の皆さんを迎えるために部屋の片付けとお返しの荷造り準備です。

一通り準備をすませ、大人が喪服に着替える頃には、子供たちはもう退屈。笑 仕方がないので、家の前の公園へ遊びに行くことに。しばらく走り回ったり、ブランコで遊んでいたのですが、うちの息子が昨日遊んだ紙飛行機を持ってくると、大紙飛行機大会の始まり!

ひとしきり遊び、10時半頃に皆家に戻ると、それから参列者の方々が集まり始めました。兄の奥さんと私の妻は、お茶とお茶菓子を出すのに大忙し。女性陣の皆様、まずはお疲れ様でした。

11時になり全員が集まると、祖母の導師でお経の開始です。12時前にお経が終わり、兄が皆さんにお礼の挨拶をして四十九日の法要は無事終了しました。

その後昼食のためにレストランへ移動。歩いては行けないので、レストランからのバスが迎えに来てくれていました。これはよかったです。この日は風もあり雪もちらつく寒い一日。コートなしでレストランへ移動できたので、段取りをする側としてはこれは助かりました。

この日の場所は掘りごたつ式の横長の和室。最初はテーブル席の予定だったそうですが、急遽レストラン側が場所を変えてくれたようです。子供が3人いたので、これも結果的には大正解。途中から子供達は飽きてしまい、部屋の中や掘りごたつの中をウロウロして遊んでいました。途中から他の親族の方々にも遊んでもらい、場も和んだのではなかったでしょうか。

1時間半ほどの食事を終え、最後の挨拶は私が行い、再び実家へ移動。実家に着いた後、皆さんにお礼の品々を手渡し、お見送りをして、四十九日の行事は全て終了。皆さん、お疲れ様でした。

その後は、母、兄一家、我が家でしばらくのんびりしていたのですが、帰りのこともあり、5時くらいに実家を後にすることに。兄が新大阪の駅まで送ってくれました。

新大阪の駅で自分達のお土産や、私の同期へのお礼の品などを買い込み、新幹線へ。子供達は結局ほとんど新幹線で寝ず、次の電車で寝てしまい、最後の最後で家に連れて帰るのがちょっと苦労しました。笑

でもこれで父が亡くなったことに関して一区切りがつき、ホッとしました。母や兄も同じ気持ちではないでしょうか。ただこれで母の所に訪問客が減り、寂しい気持ちにならなければいいのですが。それだけが少々心配です。。。。

2008年2月21日 (木)

父の四十九日。<前半>

先週の日曜日は父の四十九日の法要のため、実家に戻りました。四十九日の開始が午前11時だったため、土曜日に実家入りし、日曜日の夜に自宅に戻るというスケジュール。つい2日前まで同じく大阪に居たため、効率がちょっと悪く、行ったり来たりとなりました。

土曜日はお昼過ぎに自宅を出て、東京駅から新幹線の自由席を無事ゲット。実は品川から乗る方が便利なのですが、座席を確保するためわざわざ東京駅から乗車。でも結果的にはこの選択が正解。たった1駅といえども、品川からでは家族4人分の席をまとめて確保するのは無理でした。

残念ながら富士山に一番近い席は座れなかったのですが、隣の窓際に座っていた女性が丁寧に富士山が良く見えるポイントを要所に教えてくれました。山頂は少し雲がかかっていましたが、子供達は大きな富士山を見て大喜び!やっぱり富士山って独特の魅力があるんですよねー。

途中滋賀県辺りは一面真っ白の銀世界。そのせいか若干遅れて新大阪に到着。すると、向かいのホームには、思いがけないものが私達を迎えてくれました。

そう、東海道・山陽新幹線を走る「電気軌道総合試験車」、通称ドクターイエローです!他の方のHPを見ると、ドクターイエローにはT3とT4という2種類の車両があり、こちらはT4というのだそうです。なかなかお目にかかれないので、子供はもちろん、私達夫婦の方もはしゃいで写真を撮りました。笑

その後電車を乗り継いで、無事実家に到着。しばらくしてから兄一家も到着。すると子供が3人となり、家の中が一気に賑やかに。そしてその日の夕食は、母の提案で皆そろって近所のお好み焼き屋さんへ行くことに。何年か振りにお好み焼き屋さんへ行ったのですが、そこのモダン焼きの美味しいこと!とん平焼きとビールも頂き、久しぶりに大阪のお好み焼きを堪能しました。ただ妻は卵が苦手なため、焼きそばしか食べられず、この点は申し訳なかったです。。。。

家に帰ってからも子供達は遊ぶ、遊ぶ。何故か兄が紙飛行機を作るのが上手で、新聞紙の折込で作った色々な紙飛行機を飛ばしてこれまた遊ぶ、遊ぶ。「お金をかけなくても、ちょっとの工夫で、子供は楽しく遊ぶんだー。」と改めて思った次第でした。

結局子供達が布団に入ったのが夜の10時半頃。次の日は7時に起きる予定だったので、大人も12時過ぎには床に就きました。こうして四十九日の前夜は過ぎていくのでした。。。。

2008年1月29日 (火)

父の葬儀⑦ 骨上げ~初七日

斎場に着き、少し待合場所のようなところで待つことに。少しして再び焼き場の所へ案内され、骨上げとなる。

父が横たわっていたお棺の台が焼き場から出され、担当官の方が全員にお箸を渡す。そしてどこがどこの骨だったのかを説明しつつ、骨を拾い始める。私にはどこの骨だったかはほとんど検討がつかなかった。まず足の骨から拾い始め、順次頭の方の骨を拾っていく。私も骨を拾い、骨壷に入れる。骨上げの儀式は結構生々しいというのが私の印象だった。近しい親族しか骨上げには行かない、という理由がその時よく分かった。

骨上げを終え、再び会場に戻る。昔ならこれで全て終了だったようだが、最近は初七日の法要もこの後してしまうのが一般的らしい。会場に着き、初七日の読経が始まる。読経の中、最後の焼香を順次行なう。読経の後、お導師の方からのお話をいただき、最後に兄が親族の方々に挨拶をし、全てが儀式が終わった。兄は挨拶の途中に涙を流した。。。

会場にあった骨壷や供物などを実家に運び込み、後片付けをする。私の家族や兄たちも随時、実家を後にしていき、最後に母と私だけが残った。本来次の日から1週間大阪で出張だったが、一日だけ休みをもらうことにした。母も疲れていただろうが、これまでゆっくり話しをすることも出来なかったので、夜遅くまで話をした。昔のことも色々と聞かせてくれた。両親でかなり苦労した時期もあったようだが、穏やかに語る母の話を聞きながら、幸せのまま父は最期を迎えたのかな、と思えた。

夜も更け、2人とも寝床についた。今日も父のパジャマを着て眠りについた。長くて短い3日間が終わった。。。

2008年1月28日 (月)

父の葬儀⑥ 出棺

母のお礼の挨拶が終わり、とうとう出棺の時となった。お棺のふたが開けられ、父との最後のお別れである。葬儀屋さんが遺品や切花を親族に手渡し、お棺の中に入れられていく。子供たちも一緒にお花を入れる。父は生前果物が好きだったので、お供えの果物も一緒に入れてあげた。変な話だが、お花や食べ物以外の遺品はなるべく足元に入れてあげる方がいいと葬儀屋さんからアドバイスを受けた。硬い物などは骨を焼く時に上手く焼けず、お骨がきれいに残らないらしいのである。

親族以外の参列者も続々と最後のお別れをしていく。私もお花を添え、最後に父の顔を触ってみた。仮通夜の時に実家に駆けつけた時には、既に父はお棺の中に入れられており、それまで全く父に触れることは出来なかった。ほほのあたりにそっと触れてみたが、既に硬く冷たくなっており、少し驚いてしまった。亡くなってから既に2日ほど経ち、お棺にはドライアイスが入れられているので、当然と言えば当然なのだが、思いの外の硬さと冷たさに、父の死を改めて実感した。

お別れが終わり、お棺に蓋がされる。その上から兄の妻と私の妻により花束が置かれ、いよいよ出棺である。私を含めた男性親族の手で、お棺が霊柩車に運ばれる。母が位牌を、兄が遺影を持ち、導師の方と共にタクシーに乗り、その他の親族は2台のマイクロバスに分乗する。そしてクラクションの音と共に斎場へ出発した。

斎場までの時間は15分くらいだっただろうか。マイクロバスの助手席に座り、母たちの乗るタクシーが前を走るのをぼんやり見つめていた。。。。

斎場は私が想像していたのとは全く違い、とても近代的な建物と設備でとても驚いた。入り口を入ったところには今日の予定が書いてあり、我々の名前もあった。ふと兄の持っている遺影を見ると、写真に少し白い筋のようなものがついていた。兄の涙であろう、とその時思った。そして焼き場に案内され、父の棺を皆で囲む。本当に最後の挨拶をし、棺が焼き場の奥に入れられていった。

骨上げ(遺骨を拾うこと)まではこれから1時間以上あるので、一度式場に戻り、導師の方々と親族一同で食事(「仕上げ」と言った)を取った。通夜の時は寿司桶を頼んでいたのだが、今日は一人一人にお膳を用意していた。そのためお膳の数が足りるかどうか、少々不安だったが、何とか足りたようだった。みんなあらかた食事を終えた頃のタイミングで、叔父(母の兄)が、「子供たちに何か歌を歌ってもらいましょう。」と兄と私の子供たちに水を向ける。その場を和ませたいという叔父の計らいであったのだろう。結局兄の子供だけが歌を歌い、私の子供たちは恥ずかしくて歌を歌えなかった。ただその時の兄弟でのコントみたいなやりとりに、その場が和んだ。子供たちには感謝である。

午後1時過ぎになり、再び斎場へ向うことに。骨上げには親族の中でも近しい人しかいかないのが通常だということで、今度はマイクロバス1台のみで出発である。今度は妻が私の横に座ってくれた。車中私を気遣ってくれた優しさが有難かった。

2008年1月27日 (日)

父の葬儀⑤ 告別式

通夜の夜は夜通し起きているつもりだったが、日付が変ったところで仮眠を取ったところ、結局朝の5時過ぎまで寝てしまった。慌てて1階に下りると、叔父(母の兄)が起きて線香の番をしていてくれていた。

叔父と交代し、しばらく父の棺のそばに座り、その顔を見ていた。今日出棺されると2度と見られない父の顔である。おととい会った時からその表情は変らない。その眠っているような顔を見つめながら、色々と父に話しかけてみた。小学生の時によくバイクの後ろに乗せてもらったこと、拾ってきた犬を泣く泣く一緒に捨てに行ったこと、家族揃って旅行に行ったこと。。。。。色々な思い出がよみがえり、独り話し続けた。もうすぐして夜が明けると、ゆっくり話しかける時間もなくなる、...そう思いながら、父との最後の時間を過ごした。

6時半頃兄が起きてきた。少し2人で話しをする。仕事の話やお互いの近況を話す。実家に戻ってから、初めて兄とゆっくり話をした。そのうち叔父たちも起きた。本格的に告別式の朝の始まりである。今日も昨日に引続きいい天気。本当に父はついているようだ。

喪服に着替え、朝食を取る。私と兄の家族は、母と一緒に実家で泊まった。兄の子供と私の子供たちで、ゆうべは随分楽しく過ごしたらしい。少しは母の気晴らしになっただろうか。

告別式の開始は朝10時。母や妻たちは和服に着替えることもあり、かなり慌しい。8時には葬儀屋さんが来て、告別式の最終打合せを行なう。まずは夕べ記入した親族の焼香順序リストを渡す。そして内容を読み上げる弔電と、そうでない弔電を区別して渡す。ちなみに内容を読み上げる弔電は5通のみ。後は焼香の途中に名前だけしか読み上げられない。申し訳ないが、時間の関係でこうならざるを得ない。その後導師の方々も見え、式次第や焼香を始めるタイミングなどを打合せする。

9時半過ぎとなり、親族が集まり出し着座する。そして10時。司会者の挨拶とともに告別式が始まった。

まずは導師の方々が入場し、読経が始まる。その後しばらくして、弔電が読み上げられる。まずは名前と弔文を読み上げる5通が紹介される。それから焼香の開始である。

通夜の時は私は3番目に焼香したが、今日は親族の最後、つまり「止め焼香」である。「止め焼香」とは親族の中で最後に焼香をする人のことを指す。当初止め焼香は他の親戚にお願いするつもりであったが、司会者の方から「止め焼香は亡くなった方に近い方が行なうものです。本当なら一刻でも早く焼香したいのに、止め焼香の方は我慢して、先に他の親族の方に焼香してもらう。つまり他の親族の方々に配慮にする、「止め焼香」にはこのような意味が込められているのです。喪主の方は一番最初ですから、お兄さんもしくは弟さんが止め焼香を務めるのがよいのです。」という説明を受け、今回私が行なうこととなった。

まず母、兄と焼香し、引続き親族の方々の名前が読み上げられ焼香が続く。兄や私の子供たちもお互いの義父・義母に付き添われ焼香を済ませる。一部焼香者リストから漏れた親族もいたようだが、全員焼香を済ませ、最後に私が止め焼香を行なう。

親族の焼香が終わると、続いて通夜と同様、参列者への立礼のため、靴を履いて外に出る。立礼のメンバーは通夜の時と同じである。

まずは団体焼香。町会会長や議員の方もいたようで、兄や私の会社の代表の方々にも焼香をしていただく。私の会社からは2名の方が参列していただいた。その内の1人は昨日の通夜にも来ていただいていた。有難いことである。続いて一般焼香。日曜日でお天気も良かったせいもあり、夕べの通夜よりも参列者は多かったようである。焼香の途中で、弔電の残りが名前のみ読み上げられる。最後に受付の方々が焼香を済ませ、無事焼香が終わる。

最後に喪主である母の挨拶である。通夜と異なり、兄、兄の妻、私と私の妻の4人が母の横に並ぶ。通夜よりも少々短い挨拶を終え、皆でお礼をし、告別式が無事終了した。時間にして約40分くらいであった。

この後は、最後のお別れ、出棺と続いていく。。。。。。

2008年1月24日 (木)

父の葬儀④ 通夜

午後7時、葬儀屋さんの挨拶により、父の通夜が始まった。

導師の方々が入場し、読経が始まる。しばらくして司会者の合図で焼香が開始。まずは喪主である母が最初に焼香をする。その後、兄、私、と続き親族の方々が焼香をする。会場が狭かったため、私の家族はじめ2階に控えていた一部の親族が続いて焼香し、親族の焼香が終了。その後は、一般参列者の焼香となった。

焼香をする個人名及び団体名の読み上げは、通夜で行なわないらしい。なので焼香順など全く気にする必要もないので、これは大変助かった。ただし告別式では、親族名は全て読み上げ、なおかつ団体名も読み上げるので、これについては焼香順リストを葬儀屋さんに渡さないといけない。この作業は、今夜行なわなければならない。

一般参列者の焼香の前に、親族代表として、兄、私、いとこのお兄さん、いとこのお姉さんの旦那さんの4人が、外に出て一列に並ぶ。焼香していただいた参列者の方々に挨拶をするためである。同様に中では、母、父の姉、兄の奥さん、私の妻の4人が外に椅子を向け座り、お礼の挨拶の準備が出来る。並び方、お礼の仕方などは全て司会者の方がその場で指示をしてくれるので、慣れない私達には大変助かった。

一般参列者の焼香が始まる。最初の焼香者は私の会社の部長と課長であった。その後焼香は進み、最後に受付の方々が焼香を済ませる。しばらくしてから読経が終わり、再び司会者の挨拶が入る。喪主である母からのお礼の挨拶である。

喪主の挨拶については司会者から、「通夜の挨拶は長めに、告別式の時は短めに。通夜で3分、告別式で1分を目処にしてください。」と言われていた。通夜も告別式も基本的には1時間なのだが、通夜は基本的に焼香だけ。それに対し告別式は、焼香に加え、弔電の読み上げ、最後のお別れ、出棺など色々行なわなければならないことがあるため、挨拶は短めにした方がいいというものであった。葬儀屋さん曰く、「式も大切ですが、最後のお別れの時間をなるべく作っていただきたいのです。」とのこと。この心遣いはとても嬉しかった。

司会者に促され、母が中央に歩み出る。そして挨拶。一字一句は覚えていないが、泣き崩れることもなく、母は無事に挨拶を終えた。そして通夜は終了した。

通夜が終わり、親族は2階に上がり、通夜ぶるまいが行なわれた。私や兄は1階の式場で葬儀屋さんと翌日の段取りや、ろうそくと線香の取扱などの説明を受ける。基本的に今晩はろうそくと線香を絶やしてはいけないのだが、葬儀屋さんは「もし大変なら消していただいて結構です。火事になっては大変ですから。」とのこと。ろうそくは一晩中もつものを用意してくれていたのだが、線香は普通のもの。巻き線香なる長時間もつものを使うと聞いていたのだが、通夜の晩は普通の線香を使うもの、とも聞いた。巻き線香は告別式の後以降に使うものらしい。

通夜ぶるまいも終わり、親族が帰った後、残ったのは今晩寝ずの番をする兄、私、母の兄、そして母の弟の4人。私と兄は明日の焼香順のリストを作成し、読み上げる弔電の選択などをした。そして夜は更けていった。。。。。

2008年1月22日 (火)

父の葬儀③ 通夜の朝~開始前

父の通夜の朝、目が覚めたのは朝の5時くらい。しばらくそのままぼんやりしていると、隣の和室からは母のすすり泣く声が。。。。母は恐らくほとんど眠れなかったのだろう、無理もない。。。

そのうち叔父も起き、通夜の日の朝を迎える。昨日に続き今日もいい天気である。恐らく明日の告別式まで晴れの日が続きそうな、そんな空である。

朝食を買いに近くのコンビにへ自転車を走らせる。母のリクエストの明太子のおにぎりと牛乳も買ってきた。

簡単な朝食を済ませ、お風呂に入り、喪服に着替える。9時半頃兄一家が到着し、続いて10時に葬儀屋さんが到着した。昨日遅くまで打合せをした参列者リストをもとに、残りの打合せを行なう。通夜までの予定も確認。午後4時頃に父の棺を目と鼻の先の会場に運び入れる。親族は6時頃に会場に集まり、7時から通夜の開始である。時間はまだあるのだが、やはり落ち着かない。

そのうち前日から気になっていたことが頭をよぎる。実は父の死因を誰もよく分かっていないのである。胸を押さえて倒れそのまま亡くなっているので、心臓系の病気だということは皆想像できるのだが、正式な病名が分からない。実は病院で亡くなった場合は、医師が死亡診断書を作成してくれ病名もはっきりするのだが、父は実家で倒れ、結局そのまま意識が戻らないまま他界してしまった。病院ではなかったため、こういう場合は警察病院に搬送されるのだが、父が倒れた時の様子や父の保険金の関係等から、今回は「事件性なし」ということで、解剖するかどうかは親族の判断に任されるらしい。結局母は「解剖不要」としたため、正式な病名は分からなかったのである。

とは言え、親族や親しい人たちからは父の死因を聞かれるだろうと思い、私は近所のインターネットカフェに行き、一度調べてみることに。父が倒れた際に、「胸の痛みを訴えたこと」、「冷や汗をかいていたこと」、「少し嘔吐したこと」などの状況からも判断したところ、結論は…….「心筋梗塞」。心筋梗塞とは、簡単に言うと、コレステロールなどが原因で心臓の血管が完全に詰まってしまい、その先の心臓に血液が行かなくなった結果、心臓の筋肉が腐ってしまい、死に至る病ということである。調べたサイトによると、血管が詰まってから激しい痛みが30分以上は続くとのことだったが、母によると父はそれほど長時間苦しんでいなかったとのことであった。この点若干気になったのだが、恐らく父は痛みの最中に気を失ってしまったのであろう。もしそうなら、あまり長時間苦しまずにすんだのかもしれない。。。。。 実家に戻り、皆に父の病名が心筋梗塞だった可能性が高かったことを告げた。

お昼を食べ、会場の様子を見に行く。葬儀屋さんにより会場が手早くセットされつつあった。見ると、私の会社からも供花が。社長名で弔電も届いていた。全く有難いことである。

色々細かい打合せを進めているうちに、あっという間に午後の4時。葬儀屋さんがやって来て、父の棺を運び出すことに。今回は会場が目の前なので、自分たちの手で棺を運び入れる。もう父の身体はこの家に戻ってこないことを思うと、とても不思議な気分だった。

そのうち兄嫁のご両親、そして私の妻、子供たち、義理の両親も到着する。妻1人で子供2人を連れてくるのは大変だったこともあり、義理の両親も遠方から来てくださった。

午後6時を回り、私や兄は会場の方へ移動。親族も集まりだし、会場はにわかににぎやかになる。バタバタしている私の元へ来客があった旨の連絡がある。入り口に行ってみると、今日参列予定の会社の部長と課長の姿が。父が倒れた時の様子などを伝えた後、亡き父にご挨拶をしていただいた。部長は通夜の後、その日のうちに東京にとんぼ帰りとのこと。感謝の気持ちと申し訳ない思いでいっぱいである。

そして午後7時。親族が席に着き、導師の方々も入場され、通夜が開始された。。。

2008年1月20日 (日)

父の葬儀② 仮通夜

父との対面を終えた後、居間にいる母親たちのところへ。既に葬儀屋さん、町会会長さんたちと明日・明後日の葬儀の打合せをしていた。実家のある地域は昔ながらの町会が根強く残っていて、近所で不幸があるとこうして町会の人たちが色々手伝っているようだ。葬儀の場所も実家の目の前の公園にある集会所で行なわれることになっていた。

まず決めなければいけないのは、祭壇の種類。ある程度セットになっていて一番安いのは60万円代から。高価なものは軽く100万円を超えるだろうが、無難にその間のものを選択。次に霊柩車。リムジンの上に木の豪華な飾りがつくものの方が高く、我が家は飾りなしの方を選択。最近はこちらの方が好まれるらしい。次に、告別式の際に火葬場まで行くタクシーとバスの数。これはそれぞれ1台ずつで決定。その次は供花と供物の数。名前も含めて決めなければならないため、これは明日の午前中までに知らせることに。後は通夜の参列者に渡す祖供養の数。使わなかった分は引き取ってくれるということで、数は200で決定。ざっとそれらを元に見積書をその場で作ってもらう。残り、告別式の際の焼香者(親族と団体名)リストや、読み上げる弔電の順序などの未決定事項を確認し、葬儀屋さんはその場を退出。

その後に町会会長さんを交えた打合せに入る。まずは通夜と告別式の際に親族等に出す食事と飲み物の数。町会がよく使っている近所のお寿司屋さんと酒屋さんがあるらしく、連絡は翌日会長さんへ伝えることに。あと焼香のうち、団体名の読み上げ順序も話をする。団体としては町会の役員や議員の名前も並ぶため、その当りは会長さんに任せることに。あとは告別式の参列者への祖供養の数。通夜の時と違いなぜかこれは町会経由でお願いすることに。それと今回一番よく分からなかったのが「紙樒(かみしきみ)」というもの。これは御香典の代わりとしてお金を頂戴し、その人や団体名を紙に書いて式場に貼り出すというもの。ちなみに1枚3,000円。これも町会にリストを出して段取りをしてもらうことに。実際紙樒を作るのは葬儀屋さんなのだが、式当日受付でお金を渡して依頼する人もいるそうなので、受付を担当してもらう町会経由でお願いをすることに。

会長さんと一連の打合せを終えた後、会社に電話。新幹線の中から父が亡くなったことは伝えたのだが、会社側に手続きがあるとのことで、再度電話。身内がなくなった場合に出す報告書があるので、それを実家にFAXしてもらう。用紙に葬儀の日時や場所を記入。香典について母に確認したところ、今回は辞退するということで、その旨を書き、会社へFAX。パソコンもないかなりアナログな実家なのだが、FAXがあったのは幸いだった。

その後、いとこのお兄さん・お姉さんも駆けつける。あまりにも急なため皆驚いている。お兄さんと父の昔話をしているうちに涙がこみ上げてきた。その後、皆でお経を上げて、父の冥福を祈る。

その際中にも弔問客が訪れたり、弔電が届いたりした。それと私の会社関係ということで花が届く。よく見ると私の部長名!有難いことに個人的に送ってくださったのだろう。早速父の棺のそばに置かせてもらった。

あと、私の会社の部の上司の方からお電話があり、明日の通夜に部長とその方が、明後日の告別式にその同じ方と部の次席の方が参列していただけることを知った。遠い中、有難いのと同時に申し訳ない気持ちで一杯となった。

夜も更け、いとこや叔母さんなどが帰り、兄一家もその日は帰ることに。兄一家は父の急死の知らせの後、病院に駆けつけてくれ、その後警察へも行き、そのまま今までいてくれたので、ほぼ徹夜状態。本当に兄が比較的実家の近くにいてくれて本当に助かった。兄には感謝、感謝である。

兄たちも帰り、残ったのは母と叔父(母の兄)と隣の祖母と私の4人。決めなければいけない事が色々あり、延々と話が続いた。一番大変なのが親族の参列者の把握。通夜と告別式の両方あり、しかも食事や焼香順、席順などにも関わるため、そう簡単には決まらない。結局一通り打合せが終わったのが夜中の1時!叔父は今実家の近くに住んでいるとのことだったが、その晩も泊まってもらうことに。私と叔父は居間に寝て、母はいつもの通り和室で寝た。ただその晩一つだけ違うことは、母のそばで棺に入った父が寝ているということだった。。。。

2008年1月18日 (金)

父の葬儀① 帰省

母から父の急死の知らせがあったのが、1月4日(金)の午前2時頃。直後に実家にいた兄とも話しをし、今後の予定はまだはっきりしないものの、取りあえず私だけは実家に向うことに。たまたま4日は有休を取っていたのが幸いした。

少し仮眠を取り、新幹線の時刻表をネットで確認して荷造を開始。本来なら2、3泊程度の荷物でいいのだが、次の週からこれまた偶然大阪出張を控えていたため、一応仕事を1週間できる準備も整え、荷造りは完了。

朝8時前に妻とまだ眠っている子供たちに別れを告げ、一路実家へ。新幹線の駅で兄と連絡を取り、今後の予定が決まったことを聞く。4日(金)が仮通夜、5日(土)が通夜、6日(日)が告別式とのこと。父の遺体は今警察病院にあるとのことで、この後兄たちが引き取りに行く予定だということも聞いた。

新幹線の中で一息つき、洗面所で鏡を見ると何ともひどい顔と身なり。髭をそり身支度を整える。新幹線が新大阪に着いてから再び兄の携帯を鳴らすも、今度は不在。恐らく父を引き取りに行っているのだろう。1年半ぶりの大阪。まさかこんな形で来ることになろうとは。複雑地下鉄を乗り継ぎ、1年半ぶりの実家へ。

戸を開けると、既に兄は戻っており、他に母、母の兄(つまり私の叔父)、祖母、父の姉(つまり叔母)がおり、そばに見慣れない人が3人。2人は葬儀屋さん、もう1人は町会会長だと知らされた。

祖母に促されて、奥の和室に行くと、既にお棺に入った父が。。。。。久々に会った父は眠っているようにそこに横たわっていた。。。倒れた時は苦しんだであろうが、今は穏やかな顔をしていた。号泣はしなかったが、涙があふれてきた。手を合わせて冥福を祈った。。。。

2008年1月15日 (火)

父の病名について

しばらくは父が亡くなったことについての記事を書き留めるかもしれませんが、父のことを忘れないためにも、今回のことは記録しておこうと思います。

父は3日の夜中、自宅で急に倒れてそのまま亡くなりました。母の話によると、その日は夜まで普通に家での仕事をして、2階に上がり就寝。夜11時頃母の寝ている1階に下りていき、トイレから出た後、突然苦しみだし、倒れたそうです。「救急車を呼んでほしい。」と母に頼み、しばらくしてから救急車が来たのですが、隊員の方が「心配停止状態かも。」と言い、そのまま救急車内でしばらく蘇生処置をしていたそうです。その後、病院に運ばれその場でも蘇生処置は続けられたそうですが、心臓が再び動くことはなく、母と兄と母の姉に見守られる中、蘇生処置は終了し、父は亡くなりました。数えで71歳でした。

昨年から、歩くときに父は時々胸が痛いと言っていたようですが、しばらくすると痛みも治まるのでそのままにしていたようです。元々頑固な性格で医者嫌いもあり、それが災いしてこのような急死ということになってしまったのかもしれません。

病名については、結局はっきりとは分かりませんでした。というのも、父は自宅で倒れたため、病院での解剖は強制的には行なわれず、母も解剖を断ったためです。警察も事件性があれば解剖をしたのでしょうが、父の場合は疑わしい点がないので、結局解剖は行なわれず、病名は推定ということになりました。父が倒れた時に冷や汗をかいていたり、少し嘔吐していたことから、恐らく心筋梗塞だったかと思われます。ただ心筋梗塞の場合、痛みが30分以上続くらしいのですが、父の場合はそれほどは苦しまなかったと言います。恐らく痛みの途中で意識がなくなってしまったのかもしれません。亡くなる間際にあまり苦しまなかったとすれば、それは感謝すべきことなのでしょう。

でも酒もタバコもしない父が心筋梗塞で亡くなるとは、やはりこの歳が寿命だったのでしょう。。。。。